海は、嘘みたいに綺麗だった。
昨日まで、何もかも沈めるためにあるように見えた水が、
今日は夜明けの光を受けて、静かに揺れている。
汚れが消えたわけじゃない。
傷がなくなったわけでもない。
誰かが答えてくれたわけでもない。
昨日、空は返事をしなかった。
それでも、嵐が過ぎたあと、
そこにまだ自分の呼吸が残っていることに気づいた。
これは、救われた人の話じゃない。
まだ救われきっていないまま、
それでも水面へ顔を上げた人の話。
夜明け前の海に、ネオンの残り火が浮かんでいた。
街の看板は、遠くでほとんど消えかけている。
それでも、青と桃色の光だけが、波の上に細く伸びていた。
青は、まだ冷たい呼吸の色。
桃色は、戻りきらない痛みの色。
それは街の光なのか、彼女の中に残った夜なのか、もう分からなかった。
彼女は、浅い海の中に立っていた。
膝まで水に浸かっている。
服の裾は重く、肌に張りついている。
髪から落ちる水滴が、海面に小さな輪を作った。
昨日までなら、その輪を見る余裕もなかった。
昨日の海は、もっと暗かった。
濁っていて、重くて、息をするたびに胸の奥まで泥が入ってくるようだった。
波は優しくなかった。
光も救いではなかった。
祈りはノイズにまぎれて、どこにも届かなかった。
空を睨んでも、返事はなかった。
それでも彼女は沈まなかった。
沈まなかったというより、
沈みきれなかった。
底まで落ちたら終われると思っていたのに、
どこかでまだ、爪先が何かを探していた。
石でもいい。
流木でもいい。
誰かの声でもいい。
掴めるものが欲しかった。
でも、何もなかった。
だから彼女は、自分の両手を握った。
祈るためではなかった。
誰かに助けてもらうためでもなかった。
ただ、自分の手がまだここにあることを確かめるためだった。
「まだ、ある」
声は波に消えた。
小さすぎて、誰にも届かなかった。
でも、それでよかった。
最初に届くべき相手は、きっと自分だった。
夜が少しずつ薄くなる。
空の端が、青に変わっていく。
ネオンの光は朝に負けていくはずなのに、なぜか水面ではまだ揺れていた。
まるで、夜の名残が消える前に、最後の合図を送っているみたいだった。
彼女は顔を上げた。
空を睨むほどの力は、もう残っていない。
でも、うつむいたままでいるほど、諦めてもいなかった。
目を閉じる。
息を吸う。
潮の匂いがした。
冷たい空気が肺に入った。
胸が痛んだ。
痛い。
そのことに、少しだけ安心した。
痛むなら、まだ終わっていない。
昨日の自分は、痛みさえ鈍くなっていた。
何が悲しいのかも、何が悔しいのかも、分からなくなっていた。
でも今は違う。
悔しい。
悲しい。
怖かった。
苦しかった。
そして、それでも生きていた。
彼女はゆっくりと手を開いた。
握りしめすぎて、爪の跡が残っていた。
掌に、小さな半月の傷が並んでいる。
それを見て、少しだけ笑った。
綺麗な朝に、こんな手は似合わない。
でも、この手で昨日を越えた。
水面が揺れる。
その中に、自分の顔が映った。
ひどい顔だった。
目は赤いし、唇は青い。
髪は乱れている。
映画のワンシーンみたいに美しくなんてない。
でも、そこにいた。
ちゃんと、そこにいた。
彼女は海に向かって、小さく言った。
「助けて、じゃない」
波が足元を撫でた。
「終わってない、でもない」
言葉を探す。
祈りというには、少し不格好だった。
願いというには、少し静かすぎた。
でも、確かに胸の奥から出てきた。
「もう一回、息をする」
それだけだった。
たったそれだけの言葉が、
今の彼女には、どんな約束より重かった。
遠くで、朝日が昇る。
ネオンの残り火は、水面からゆっくり消えていった。
けれど、完全にはなくならなかった。
青い海の奥に、ほんの少しだけ、夜の色が残っている。
彼女はそれを見て思った。
消えなくていい。
全部綺麗にならなくてもいい。
全部許せなくてもいい。
全部忘れられなくてもいい。
汚れた海を泳いだことも、
息ができなかった夜も、
誰にも届かなかった祈りも。
それらを、なかったことにしなくていい。
ただ、今は水が澄んでいる。
だから、今だけは息をしていい。
彼女は一歩、岸へ向かって歩いた。

足元の砂が崩れる。
波が戻る。
体は重い。
透明な水の中なのに、足首だけが一瞬、昨日の濁流を覚えていた。
沈む。
また沈む。
そんな気配が、冷たい指みたいに足首を掴んだ。
彼女は止まった。
胸の奥で、鼓動が一つ鳴る。
どん。
昨日の海の音に似ていた。
でも、今日は違う。
それは沈める音ではなく、
ここに戻ってくる音だった。
彼女はもう一度、息を吸った。
二歩目は、少しだけ楽だった。
背中の向こうで、海が静かに揺れている。
彼女は振り返らなかった。
振り返らなくても、分かっていた。
昨日の海は、まだどこかにある。
また戻る日もあるかもしれない。
綺麗な朝が、ずっと続く保証なんてない。
透明な水も、いつかまた濁るかもしれない。
でも今日の海も、確かにある。
透明な朝。
淡いネオン。
痛む掌。
戻ってきた呼吸。
彼女は濡れた服のまま、砂浜に立った。
ポケットの中には、送らなかった言葉がまだ残っている気がした。
助けて。
ごめん。
怖かった。
まだここにいる。
どれも、誰かに送るには遅すぎた。
どれも、消すには早すぎた。
彼女はそれらを胸の奥にしまった。
祈りは、届くためだけにあるんじゃない。
消さないためにある日もある。
そう思った。
波が引く。
彼女は、濡れた足を一歩前に出した。
助けて、と叫ぶかわりに。
まだ終わってない、と言い張るかわりに。
ただ、息を吸った。
冷たい空気が胸に入る。
痛みが、少しだけ形を取り戻す。
二歩目を踏み出す。
砂が崩れる。
水が足首から離れる。
朝の光が、濡れた頬を照らす。
彼女はもう、祈りの言葉を探さなかった。
歩いていた。
それだけで、十分だった。